院長雑感詳細

院長雑感(81号)

新しい年、2008年となりました。日本の将来も、また病院の将来も、はっきりとイメージできないのが正直なところです。一つ一つ立ちはだかる問題に対して、真正面から向き合いながら力を合わせて解決していく以外に、いい方法はないように思います。

 この一年、よろしくお願い致します。

□ 患者数

 12月の入院患者数も380.1人で、計画よりわずか0.1人の増で、ほぼ計画を達成できた。平均在院日数も16.0日と基準の19日を大幅にクリアしている。

 外来は新患、再来とも計画よりわずかに割り込んでいる。

□ 診療報酬点数

 12月の診療報酬点数は、入院が927.011点の減、外来は54.173点の増で、計画比872,838点の減となった。12月は入院患者数はほぼ計画通りだったので、診療報酬点数は計画より増加するであろうと期待していたが、緩和ケア棟の患者減や手術件数の減少で、基本やA類の点数の伸びが悪く、入院で計画より約100万点の減となった。

 ただ損益計算書では、経常費用も減少したため月割り負担費用を按分すると、12月の実質経常収支差は約2,700万円の増で、実質経常収支率は106.5%である。そして12月までの累計経常収支率も105.4%と大幅な増益となっている。

■ 平成20年の夜明け

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 先ずは、元旦を挟んで年末から年始にかけて、病棟・外来・厨房など病院業務に従事された職員の方々にお礼申し上げます。

 昨年は亥年で、また私的には還暦とも重なった一年で、皆さま方にはいろいろと祝っていただきました。幸いにも病院の方は大きな事故もなく、19年度の経営状況も、経常収支率で100%以上を確保できる目途が立ちつつあります。

 さて平成20年、この区切りの年、病院にとりましても、また皆さま方お一人お一人にもつつがなく過ぎていくことを望んでいますが、時代は簡単には平穏な一年を許してくれそうにもありません。日経新聞の元旦の一面では、「沈む国と通貨の物語」という見出しで、日本経済の世界における地盤沈下と、弱い円の将来をやや悲観的な見方で論じていました。私たちは常にグローバルな世界における日本、そしてその中での医療の動向、そして私たちこの南九州病院の置かれている立場を見ていく必要があります。

 今年は先ず目標に掲げたいことというか、お願いしたいことは、医療の原点に立ち返って、高い志(使命感とでもいおうか)を思い起こして欲しいと思います。

 毎年の繰り返しになり聞き飽きたかと思いますが、医療状況はますます厳しくなり、特に我々のような地方の公的病院は、「医師不足」という難題に直面しております。病院はいうまでもなく、医師を中心にしたチーム医療という性格がますます強くなり、どの職種も等しく重要であり、どの部門が欠けてもうまく機能しないことは明白です。ただここでは、当面緊急を要する課題である「医師不足」ということを、あえて取り上げさせてもらいたいと思います。

 「医師不足」の要因についてはさまざまな分析がなされていますが、鹿児島県全体では医師の絶対数はさほど変動はありません。問題は、病院勤務医、特に公的病院の医師が減っているということに尽きます。その結果、病院勤務医は開業医から紹介される難しい治療や手術を要する患者、救急患者の処置に追われ、疲労困憊の状況に陥りつつあります。そして大・中規模病院の勤務医が、比較的時間の余裕があり経済的にも有利とされる開業医へ大量に移っていく現象が、加速されるという悪循環に陥っています。

 ところがこのような状況に対する有効な処方箋は、簡単には見いだせないのが現実です。このまま公的病院が空洞化してしまえば、真っ先に被害を受けるのは地方に住む患者、難病など重度の患者、救急を要する患者などです。

 是非とも力を合わせて、「どげんかせんといかん」という使命感で、踏ん張って欲しいとお願いする次第です。

 次に病院としては今年も、地域に信頼される理想の病院作りに向けて、みんなで力を合わせて頑張っていきましょう。先ほど述べましたような「医師不足」などもあり、一部では困難な状況もありますが、今ここをしのげば、新しいいい展開が開かれるものと確信しています。

 また平成17年度に「患者満足度第一位」に輝いた実績にも、再び挑戦したいと思います。病院の全ての基本は、患者さんの思いをよく聴いて、真剣に答えられる信頼関係です。このことが揺らげば、病院の存続も揺らぎかねません。

 平成20年が、病院にとっても、みなさま一人一人にとりましても、いい一年でありますことを祈念して、仕事始めの言葉にしたいと思います。

 暖かい春雨が静かに降っている。総じて暖かい冬になりそうである。患者数は昨年に比較して、正月休みからの落ち込みからの回復は順調である。有り難い。 医師会報の新春号の頼まれ原稿を転載。(この院内ランに書いた内容を、適当に合体させたもの)。この新春号の「リレー随想勤務医の窓」に、西田先生が書かれている。そう言えば、先月号は小倉先生だった。

■ 「団塊世代お荷物論」への反論

 「団塊の世代」という言葉で一括りにされるのは、「数が多いだけの没個性集団」の代名詞みたいであまりスキではない。しかし人が多かったのは事実で、少子化の現状からは想像しがたいことだが、私の卒業した城西中学校は3年生の時には、全校生徒4000人近くに達していたのではないだろうか。卒業アルバムを開くと、全校朝礼で、各学級が一列に整列している姿は壮観でさえある。ただこれだけの生徒が、あの狭い校庭を使うとなると、さまざまな弊害も生じる。まず運動会は変則的で、全生徒を収容しきれないため学年毎の運動会となり、3年に一度だけ鴨池の陸上競技場を使用したこともあった。それでも100メートル競走となると、一学年1300人を超えるとなると、10人ずつ走るにしても男女合わせて130組以上になる。次々に号砲がなりスタートしていくので、ビリの走者はトップの走者に追い抜かれることも頻繁に起きたが、気にする余裕などない。運動会のプログラムの大半は徒歩競争だけと、なんとも味気ないものだった。また修学旅行も前半と後半の組に分けていた。教室は60人学級で、プレハブや体育館に仕切りをして利用したこともあった。

 そのような団塊の世代が、次々に定年の時期を迎え年金世代へと突入するため、「お荷物論」的議論も目立つ。ただ我々の世代は、「明日の豊かさを信じ、勤勉で、環境順応能力の高い世代」で、いわゆる戦後の高度経済成長の重要な推進力にもなった世代である。今後も従来の「定年」という枠組みにとらわれず、「好きな仕事をいつまでも続ける」覚悟があれば、社会の大きな力となり得るはずである。

 私の身近にも、それぞれの立場で頑張っている同級性も多い。

 先日、「夢・人・思い出に感謝して」と称する「ムラカミ芳樹ファイナルコンサート」が、県民交流センターで催された。彼は中学時代の友人であるが、プロのギタリストとして活躍してきた。当日は3時間の強行スケジュールだったが、専門のギターにとどまらず、歌唱や軽妙なトークなど、多方面でのエンターテイナーとしての才能を存分に発揮した。その声量や指の動きなどに年齢を感じさせない迫力があり、同世代として「まだやれる」と勇気づけられたような気もする。

 このムラカミ君からチケットの販売を依頼されたとき、「消息不明だったM君が、博多で料理店をやっていたよ」ということ。彼とは中学・高校の同級生で、北海道大学理学部に進学、学生時代にはよく遊びに来てくれていた。早速、出張の帰りに博多の料理店をのぞくと、博多駅から10分ほどの場所で奥さんと二人のお店だった。さまざまな紆余曲折を経た後、50歳を過ぎてからトラバーユしたとのこと、白い作業着を着た風貌と魚さばきは、生物の先生のようでもある。「底引き網でかかった不要な魚を加工できないものか」という夢も持っているようだが、当面は「まだ子供も小さいし、頑張らないといけない」ということだった。

 団塊の世代は、単なる年金生活としての自分に価値を見いだせずに、幾つになっても働いて、社会貢献もしながら新たな高齢社会の「生き方モデル」を提案していくはずである。

(鹿児島県医師会報2008/1月号から)

■ iPS細胞

 12月4日の朝刊によると、科学技術振興機構がiPS細胞の作成に成功した山中教授らの研究に、数億円の研究費の追加を臨時的に決定したと報じている。

 人の皮膚細胞から、さまざまな組織や臓器のもとになる万能細胞(人工多能性幹細胞=iPS細胞induced pluripotent stem cells). を作ることに、世界で初めて京都大学再生医学研究所の山中伸弥教授(45)らが成功した。従来の代表的万能細胞である胚性幹細胞(ES細胞)は、受精卵を使っていたため、倫理的な問題をクリアできないでいた。歴史的にみると、1981年に英国のエバンス博士らがマウスを使い初めてES細胞を樹立、1989年に米国のカペッキ博士らがES細胞を使って特定の遺伝子機能を失わせたノックアウトマウスを作成(この二人は、今年のノーベル医学生理学賞)、2004年には韓国の黄教授らが人のクローン胚によるES細胞樹立を発表したが、2006年にその論文にねつ造であったことは周知のことである。

 今回のiPS細胞は、成人の顔の皮膚の細胞や関節の滑膜細胞に四種の遺伝子を導入し、人やサルのES細胞の培養用の増殖因子を使ったり、マウスより長く培養することで万能細胞の作成に成功したという。そしてこの細胞が、神経細胞や心筋細胞、軟骨に分化することも確認されている。

 もしこの技術を応用できたら、パーキンソン病や心臓病など、病気で失われた臓器の機能を修復する「再生医療」の切り札としての道が開かれることになる。例えば万能細胞で心臓の筋肉の細胞を作って移植すれば、臓器移植をしないですむことになる。また脊髄損傷で四肢麻痺に陥った人も、神経移植で機能を回復できるかも知れない。

 山中教授は今後の見通しについて、「iPS細胞を使って生まれたマウスの二割でがんが見つかっているので、がん化を防ぐ研究に取り組み始めている」こと、倫理面の問題に関しては、「iPS細胞は医療現場に役立てるためにわざわざ人工的に作ったものなので、臨床に生かさないと意味がなく、過度の規制はよくないと考えている」と述べている(日経新聞)。また「再生医療の実用化を目指すには、広い分野の専門家で協力態勢をつくるしかない。今のままでは米国に負けてしまう」と危機感を募らせているという(朝日新聞)。

 インターネットで山中教授の研究室のホームページにアクセスしたが、これが実に変わっていて、このような研究室だからこそ自由な発想で破天荒な成果が生み出されたのだろう。山中教授の経歴も一般的な科学者と少し異なっており、昭和62年に神戸大学を卒業し、国立大阪病院で研修されている。平成5年にアメリカでのポスドク生活が本格的な研究の始まりと考えられるので、わずか15年弱の研究生活ということになる。趣味の項には、現在がジョギングと水泳、ちょっと前が子どもと遊ぶこと、少し前がゴルフ、もう少し前がマラソン、トライアスロン、だいぶ前がラグビー、もっと前が柔道(大阪府高校生大会ベスト16が2回)と、いわゆる典型的な「体育系」である。またホームページの「出来事」欄には、数々の集合写真が貼付されているが、研究室のスタッフの上半身が裸だったり、飲み会などでみんなで「わいわいがやがや」楽しんでいる様子がよくわかる。みるからに、「よく学びよく遊ぶ」山中研究室という感じである。

■ エンゲル先生

 「エンゲル先生への今年のクリスマスカードは、自分で書いてよね」と家内に言われてしまった。毎年「お願い」で済ませていたので自分で書く必要はなかったが、今年は用意してくれていた相撲の図柄のカードに、久し振りに簡単な英語を並べることにした。

 エンゲル先生のもとに留学したのが、1980年だから約27年前のことになる。先生は現在79歳だと思うが、私が留学したときは52歳で、研究者としても最も脂の乗りきった時期だった。土日も含めて、教会に出かけるとき以外は夜遅くまで研究室で仕事をすることを生活の常としていた。日本では、アメリカ人は週末をエンジョイすると報道されるが、いわゆるエグゼクティブと呼ばれる人たちの多くは、日本人よりも働き蜂かも知れない。カルチャーショックという言葉がある。私が留学して最もショックを受けたことといえば、「世界にはこんなに頭のいい人がいる」ということだった。神経学の臨床、専門の筋肉病理はともかく、生化学、電気生理、免疫学などどの分野でも、エンゲル先生を凌駕できる人はいないほど豊富な知識を持っておられた。

 先生はアメリカの研究者では一般的なことであるが、民族的にはユダヤ人でハンガリー動乱のちょっと前に東欧から移民されたとのことだった。若い頃はいわゆる苦学されたようで、今の奥さんのナンシーの経済的な援助も受けたていたという。金髪で手足が長くスタイルのよい典型的なアングロサクソンと異なり、同じユダヤ人のキッシンジャーに似ており、胴長短足で日本人のシャイな性格もよく理解してくれた。着ているものにも無頓着で、自分のネクタイで顕微鏡などをよく拭いていた。表だって怒られたことはなかったが、ただ彼の話している内容がよく理解できないときなど、頭をちょっと傾けながら「ああ、どうしようもないな」というように、両手をひろげられたものである。研究には厳しい人で、一つの結果が出てもそれが真実なのかどうか、徹底的に検証させられた。私は2年でほぼ当初のプロジェクトは済ませていたが、あと一年は点検のためにあてられた。研究室で毎朝、顔を合わせると、「How about fishing ?(釣りはどうかね?)」という会話で一日は始まった。私の仕事は電子顕微鏡を使って、太平洋の底に沈んだ5円玉(active zone)を拾い上げることで、途方もない根気を必要とした。ただマドリード(フランス)で開催された4年に一度の世界神経筋肉病学会で、司会のシンプソン教授(当時筋無力症の研究では最も高名)から、今度の学会で最も素晴らしい仕事だとの賛辞をいただいたときには、全ての苦労が報われたようで嬉しかった。ちょっと気恥ずかしいことだが、日本に帰って、井形教授にエンゲル先生からの手紙を見せてもらったことがある。あの厳しく滅多に人のことを誉めたことのないエンゲル先生からの過分な言葉に、ただただ嬉しくありがたく感じたものである。あの時代のことも、ずいぶん昔のことになる。

During the past three years, I obserbed with pleasure Doctor Fukunaga' s development.

First, he became very skillful in carring out his freeze-fracture work, and then

developed excellent ideas for additional investigations. I now consider him a matuare

scientist who can carry out a reseach problem from start to finish.As for his

personality, I found him, highly intelligent, utterly honest, and deeply loyal to his

associates. I feel that he is a great asset to your staff, and am glad that I had the

opportunity toknow him and to work with him.

■ 有村章博士

 12月11日南日本新聞朝刊の死亡欄に、有村章博士が10日午後3時に、多発性骨髄腫のためルイジアナ州ニューオーリンズの自宅で死亡されたことが報じられている。83歳ということだが、西日本新聞など全国紙には神戸市出身と書かれているが、博士はれっきとした鹿児島市出身で、鹿児島二中、七高から名古屋大学医学部を卒業されている。

 ニューオリンズ日本国総領事の雨宮夏雄さんという方の2000年4月の領事館便りから引用すると次のようになる。 「最後に、人間の脳の神秘解明を通じ人類の福祉への大きな貢献を目指す一人の日本人科学者の話をお送りします。米南部における名門大学チユーレン大学(ルイジアナ州ニューオリンズ市)の内科、兼生理、解剖学教授、有村章(アリムラアキラ)博士です。博士は1951年名古屋大学医学部を卒業、1957年生理学で博士号取得、イエール大学で神経内分泌の研究を行い、1965年からチユーレン大学でシャリー博士の片腕として、視床下部ホルモンの研究に従事。1977年シャリー博士はノーベル賞を受賞しましたが、有村博士の貢献無しにはその受賞はあり得なかったと言われています。ニューロサイエンス(神経科学)の第一人者である博士の学術論文は800を越え、世界で最も引用数の多い科学者に数えられました。研究の他、博士は科学研究における国際協力、それに対する日本の責任と積極協力の重要性を日本政財界の有志に説き、1985年経団連、日本船舶振興会の援助で、チユーレン大学に日米協力生物医学研究所を設立、博士はその責任者として、ニューロサイエンスの研究を続けています。同研究所は1989年 ゛PACAP゛ と呼ばれる新脳ホルモンを発見。最近これが胎児の脳生成に必要であり、成人では脳卒中などによる脳神経損傷からの回復を促進させる作用を持つことが明らかとなり、将来における脳疾患治療への応用が期待され大きな注目を集めています。

 有村博士が提唱しているもの。それが「サンシャイン・プロジェクト」です。人間にとっての最後の秘境「脳」。その神秘を解明し人類社会の難問題解決に世界が互いに手を携え取り組んでいこうと博士は呼びかけています。チユーレン大学所有敷地50万坪内に、国際協同研究機関 IIN( Interenational Institute of Neuroscience ) を建設し、産学各界からの英知を世界中から結集し、協同研究方式により脳の総合的解明を果たそうという計画です。アメリカという国の強さは、優秀な頭脳を持った人々を世界中から受け入れ偉大な事業を達成させるところにあると思いますが、人類の共通課題である脳疾患の克服を、日本人科学者のリーダーシップによる国際協力を通じ達成できたらどんなに素晴らしいでしょう」

 私が研修医時代からずっと大変お世話になっている先生に、鹿児島市西千石町で開業されている沖野秀一郎先生という方がおられるが、よくこの有村博士のことを話されていたので電話してみた。すると早速、先生が南日本新聞や医師会報に寄稿された博士に関する随筆をFAXで送ってくれた。沖野先生は名古屋大学時代からの研究仲間でもあったらしいが、博士は鹿児島市の岩崎谷の素封家であった有村丈次榔さんという方の長男(次男は指宿ロイヤルホテル社長であったが亡くなられ、奥さんの有村佳子さんが鹿児島では有名人)だということである。

 有村博士はアメリカのパーマネントビザを取られており、沖野先生に奥様から病状などを記したFAXが送られている。その中で「長男の次郎夫妻がレークチャールスから来て献身的に看病しており、明日はカリフォルニアから次男真がやってくることになっています・・・」と書かれているが、戦後アメリカに移住された人も二世、三世の時代になっているのである。

■ 久方ぶりのゴルフ 

 昨日、會田先生(霧島での宿泊研修会の今年の講演者)から「やっぱり、あたったやろ」という、いかにもしてやったりという表情が読み取れるような電話が携帯にかかってきた。数日前のこと、「今度の日曜日は、予報では雨ですね。雨の中のゴルフは・・・」という私の発言に、「大丈夫よ。予報より早く天気は動くんだから」と自信たっぷりの物言いだったのだ。

 12月23日、天皇誕生日、朝起きて空を見上げると漆黒の闇に星が瞬いていた。まさに日中の快晴を予測させる星模様で、今8時30分の仲曽根さんの迎えを待ちながらこの項を書いている。窓の外に目をやると薄雲がたなびいているものの、この時期としては寒さ風も穏やかで絶好の気象条件といえる。私にとっては実に今年初めてのゴルフであり、いつものメンバーによる夜の「ブリを食う会」のプレイベントゴルフコンペということになる。この会は、會田先生が数十年前に長島高校に赴任していたときの教え子が、毎年年末に送ってくれる獲れたてのブリやカンパチを食べる粋な会で、私もこの十数年、毎回参加してきた。一昨年は、その年も唯一ゴルフしたこのコンペで、同伴者の會田先生がホールインワンを達成されたので、いつもより盛大な「ブリを食う会」となり、おまけに記念の腕時計までもらったこともある。私にとって最近の数年は、その年の最初で最後のコンペが「ブリを食う会」という訳である。

 ところでゴルフの話になるが、私が初めてゴルフクラブなるものを手にしたのは、1980年の6月末で、メイヨークリニックのあるロチェスターのイーストウッドゴルフクラブであった。それまで気持ちの中に、ゴルフは「贅沢な遊び」という固定観念も少しあって、クラブを手にすることをためらっていた。ところがアメリカに到着して確か翌日だったかと思うが、まだ時差も抜けきらないというのに納先生からこのゴルフ場に連れて行かれ、いきなりグリーンに出ることになった。人も広さも、ゆったりとしたアメリカならではのことである。それまで一度もクラブを手にしたこともなかったが、グリップの握り方とスウィングを教わり、ティショットは全て5番アイアンで18ホールを回り終えた。確かこの時のスコアが130をちょっと超えるぐらいだったかと思うが、「最初のラウンドでこのスコアとは、お前は筋がいい」と例の調子でおだてられ、以降アメリカでの3年間は、ゴルフにはまった生活とも言える。何しろ一つのコースでの年間プレー代が、日本での一回のプレー代より安いぐらいである。いつ行っても待たされることはないし、本当に手軽なストレス解消のスポーツとして楽しめた。ただ一年間でプレーできる期間は、寒さのため約半年ということになるが、10月末頃になっても凍りついたゴルフ場で、日本からの留学生だけが独占してよく遊んだいた。ちなみに冬のゴルフ場は、スキーのクロスカントリーの競技場に変身する。

 日本に帰国して驚いたのが、プレー料金の高さと、予約やお昼の待ち時間の長さ、そして丸一日をゴルフに費やすことである。アメリカでは仕事を終えてから、特に夏時間になると3時間ぐらいあれば(ハーフで休憩は取らずに)、ちょっと遊んで来るという感覚だった。それでも帰国後10年間ぐらいは、いつもぶっつけ本番でコースに出ていたが、ここ数年は年一ということになっている。

 さてそろそろお迎えの時刻、さあ、今日のスコアはどんな数字で収まるだろうか。(結果は書きたくないが、やはり年一では勘も鈍り、2個あるニアピンの一つはまぐれでゲットできたものの、アメリカでの最初のスコアと大差のない散々な結末になった。おまけに、足腰が痛む)。

■ あらためて食うかい(前)

 「弘法にも筆の誤り」とか、「弘法筆を選ばず」などの諺でよく知られている弘法大師空海は書家としても有名であるが、何といってもその真骨頂は、平安初期に旧来の奈良仏教を否定して中国から密宗を伝道して日本的に加工し、「真言密宗」を確立したことにある。

 でも空海というと、感覚的にはもっと後世の人かと勝手に思いこんでいたら、774に生まれ835年に62歳で入定しているので、随分昔の人である。「入定」とは高僧などが死ぬことをいう言葉だが、空海は高野山で生身のまま禅定に入り、世の中の平安と幸福を今も祈っているという入定信仰もある。そのため奥の院(高野山の一番奥で、戦国武将から無縁仏まで、数十万の供養塔が建立されている墓原)では、入定以来欠かさず、唯那(ゆいな)という僧侶が、御供所で準備された一汁四菜の膳と衣服を御廟の前に供える習慣が続いている。どうもこのあたりになると、信じがたい作法や習わしが多く、密教特有のおどろおどろしげなところでもある。

 個人的にはこの空海も、中学校のころ試験勉強で、最澄の天台宗と間違わないように覚えたことを除いてはさほど関心はなく、食わず嫌いだったのかも知れない。ところが最近ある縁で、「あらためて、食うかい(空海)」と関心を持つに至った次第である。歴史を振り返るとき、「たら・れば」の世界があるとすれば、空海の乗った遣唐使船は、4隻のうち2隻はどうにか唐の海岸に漂着したが、後の2隻は東シナ海で海の藻屑となった。この時最澄も、別の船で唐に渡っているが、その後の二人の関係は微妙で、ひととき師弟関係になったこともあるが、結局絶縁してしまう。また唐から帰るときも、最後の帰還船に奇跡的に乗船することができた。当時、遣唐使としての在唐機関は20年が相場とされていたが、空海は約2年で切り上げて帰ってきた。空海という不世出の天才がこの時代に活躍できる環境が、国際都市として栄えていた大唐の都、長安に完成していたというのも歴史の偶然である。

 ここ数年、読書傾向を司馬遼太郎から藤沢周平に変えていたこともあって、司馬さんの「空海の風景」(中公文庫)を文字通り棚上げして、積読状態になっていた。ところが毎週送られてくる朝日ビジュアルシリーズの「仏教新発見」が縁で、東寺(京都)を訪れたり、池口恵観(最福寺法主で、プロ野球の清原や金本との親交でも有名)さんから自著を数冊送ってもらったこともあって、空海への興味が一気に芽生えたというわけである。

 ある評論家は膨大な司馬文学の中から唯一推薦するとすれば、この「空海の風景」だというだけあって、確かに素晴らしいできばえである。司馬さん以外には、このように膨大な資料を駆使して、縦横無尽に話を展開できる作家はいないだろう。ある時は平安初期時代史でもあり、ある章は当時の日本、中国、インドの文明論であり、そして密教の入門書でもある。

 この本は千二百年ほど前に亡くなった空海の伝記ということになるが、かなりフィクションも交えているだろうから、「空海の風景」というタイトルがピッタリする。空海を中心に置きながら、綿密な時代考証のもとに、その実像を創造力を駆使して浮かび上がらせようとしている。これも空海が、多数の著書を後世に残していたので可能になったという。

 時代背景からいえば、空海の生きた時代は、衰退しつつあった奈良仏教と、平安中期以降の世をはかなみ剃髪して、山林に隠遁して無常観に浸るような厭世仏教の間に挟まれていたことになる。

 そのため空海は釈迦の思想を包含してはいるが、奈良仏教のように「釈迦」を教祖とせず、「大日如来」という宇宙の原理に、人間のかたちを与えて教祖とした。そしてある一定の「法」を修行により取得すれば、風になることも犬になることも、そして生きたまま原理(即身成仏)そのものになることも可能で、成仏したまま浮き世で暮らすことも可能であるとした。密教というとどうも難解で解りづらい印象を持つが、「もの」にも「こころ」があるという考えや、頭だけで考えることなく五感(皮膚感覚)でわかろうとする考え方は、日本人が古来から持ってきた伝統的な思考法とも合致するのである。

■ あらためて食うかい(後) 

 東寺を訪ねたときにも驚いたことであるが、密教系のお寺の仏像のきらびやかさや奇抜さである。奈良の仏像は、いずれも飾り気がなく静謐で素朴な感じがする。一方、密教仏はまばゆいほどの原色の華麗な服装で、宝冠、首飾り、腕輪、足輪で身を飾り、形も肉色である。司馬によれば、人間の幸福は欲望からの解脱にあるとした釈迦の仏教に対し、密教は、人間の富貴への願望を丸呑みするかのように大肯定するのである。

 空海はどこまでも自信家で、時には胡散臭くもあり、誇大妄想的にもみえることもある。明るく、現世の快楽もそのまま肯定し、スケールの大きさも尋常ではなく、独創的だった。司馬の言葉を借りれば、「原理」を取得し普遍的世界を知った空海にとっては、日本という国家も朝廷も、ちっぽけな存在に映ったに違いない。

 ところで空海を世に知らしめたのは、遣唐使として出航後、漂流して唐よりかなり離れた南方の福州の海岸に漂着してからである。そこで海賊の嫌疑をかけられたが、遣唐大使に代わって空海が、福州の長官宛に嘆願書を代筆した。空海は記憶力と論理の能力に秀でていただけでなく、希有の文才に恵まれていた。その詩文があまりにも素晴らしく、当時の大唐の知識人の度肝を抜くような名文と筆致であり、「長安にもこれだけの詩人はいまい」といわせた。その甲斐あって嫌疑が晴れ、長安入りを果たすことができる。

 そして、密教の第7租である恵果和尚に師事し、インド直伝の密教を丸ごと授けられ、わずか6ヶ月で胎蔵界と金剛界の灌頂(かんじょう、あるいはかんちょうと読む。受戒の時に香水を頭に降り注ぐ儀式だというが、キリスト教にも似ている)を受けるという前代未聞の快挙を成し遂げる。

 それにしても現代の感覚から考えると、当時の長安は周辺国からさまざまな人が集まってくる大都市であり、田舎の小国からの渡航してきた一僧侶が、わずか数ヶ月で、千人以上の弟子から唯一選ばれて、真言宗第8租の位を得ることになるとは信じがたいことである。第7祖の恵果は空海を見るなり、笑みを含んで喜歓したというから、頭の良さ、語学力の高さ、漢詩への深い理解、策士としての力などずば抜けていたものと思われる。

 私はこの稿を東京からの帰りの飛行機の中で書いているが、この辺りから鹿児島空港へと高度下げ始めるので、眼下に室戸岬をきれいに見ることができる。連続する小さな入江に、急峻な山が迫っている様子がよくわかる。空海は18歳で大学寮を中退し、故郷である四国の山中に修行の旅に出る。そして室戸岬の近くの洞窟で、天にあった明星(金星)が空海に近づき、やがて凄まじい衝撃とともに口の中に入ってしまうという奇怪な体験をする。そういえばこのような超体験を密教の僧侶は経験するもののようで、先の恵観さんも平成元年の百万枚護摩の修行中(百日間にわたって、真言を唱えながら、百万枚の護摩木を炎の中に投げ込む荒行)に、「不動明王が自分の体の中に入ってしまう」という希有な体験をしたという。

 恵観さんといえば、私はまだ一度もお会いしたことはないが、私の書いた「早起き院長のてげてげ通信」(随筆かごしま社)に対して、もったいないような書評を寄せてくれている(随筆かごしま、No164)。「医師とは、なんと充実した人生を送っているのだろう」という言葉で始まり、「完璧を求められてもなあ。福永先生のそんなつぶやくが『てげてげ』の言葉の陰にある。だが杓子定規でない細やかな医療だから、病は癒される。あなたも御仏、私も御仏。それが我がお大師さまの教えである。福永先生は御仏に帰依しているわけではないのに、衆生救済の『仏心』がある」。

 「なんとまあ大仰な」と思えなくもないが、幾つになっても誉められたら嬉しいものである。

 これも偶然なのか、バランス感覚とでもいうべき天啓なのか、お隣の加治木記念病院院長の五十嵐至朗先生から、五木寛之著「私訳歎異抄」(東京書籍)が送られてきた。「密教にかぶれるな」ということなのかな。

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